発達障害について語ろうとするとき、絶対に切りはなせないのがグレーソーンの存在です。
私自身、最終的にADHDの診断を受けるまで、別の病院ではグレーゾーンとされていました。
これが本当に闇だと思っています。
以下は、最終的に自分が納得する診断に至るまでの経緯です。
・10代後半:説明のつかない違和感や気分の落ち込みで心療内科Aにかかる。(特に診断はなかったと思う)
・20代前半:心療内科Bにかかり「統合失調症」と診断される。(ADHDが統合失調症と誤診されていまうケースが多い事を最近になって知りました)
・20代中盤:初めて発達障害を疑い心療内科Cにかかる。WAIS-Ⅲを含めた検査の結果、グレーゾーンと判断される。
・20代後半:同じWAIS-Ⅲの結果を持ち込み病院Dへ。不注意優勢型ADHDと診断される。
このような流れでしたが、一番ショックだったのが心療内科Cでの最終的な医師の回答でした。
まず心療内科に行った最初の記憶がたしか10代後半くらいのころで、その病院をAとします。ここでは漠然とした不安や気分の落ち込みなどで受診しましたが、特に診断などがあったかどうか覚えていません。
次に行った心療内科Bでは、はじめにそううつ状態と言われ、その後は「統合失調症」との診断をうけるもイマイチピンとこず。半年〜1年弱のあいだ通院し、抗うつ剤などを処方されていましたが、薬の副作用などもわずらわしく、病院の良くない評判を立て続けに聞いたことも重なり行かなくなりました。
今思えば昼間のバイトをやめたくらいのころで、ストレスも落ちついていたからだと思います。
次に受診したこの心療内科Cで、私は混乱する事になります。
昼間に契約社員として働きはじめて1年前後が経ったころ、本格的に自分のヤバさを意識しだし、初めて発達障害をみてくれる病院を探しました。
知能検査WAIS-Ⅲのおおよその結果を見た先生に「おそらくADHDでしょう。 ASDも入っていると思います」と言いわれ、とても安堵したのを覚えています。
しかしその後、病院Cによるさらに詳しい検査(質問内容に手書きで答える検査、ロールシャッハなど)を加味した結果、「やはりあなたはADHDではないとおもいます」というのがこの病院の判断でした。
私はとてもショックでした。
一度ADHDだろうと言われて自分でも納得してしまっていたのと、「じゃあこのどうしようもない自分のできなさや違和感は一体何なんだ」という疑問、「自分の努力不足でなにを病院にまできて検査受をけてるんだろう。恥ずかしい」という気持ちもわいて、それがさらなるストレスになり、余計につらくなっていました。
障害という診断にまで至っていないために、薬の処方もされません。
この病院ではそれから定期的にカウンセリングをして様子を見るという方針になりましたが、質問に答えるだけのカウンセリングを数回終えても何も解決している感覚が得られず、そのまま行かなくなりました。
最後の心療内科Dに行ったのはそれから約1年くらい後だったと思います。既に合わない仕事に疲れ果て、契約社員はやめていたのですが、
あれからずっと気持ちが悪い。やっぱり納得がいかない・・・
これからの自分の身の振り方に迷いをなくしたかったのもあり、セカンドオピニオンを決断しました。
次の病院でも同じことを言われたら、もうこのモヤモヤの正体は分からないままになる、という不安は若干ありつつも、受けない選択肢はなかったので、またしても発達障害の診断が可能な別の病院Dを探し受診。
WAIS-Ⅲの結果と小中学校の通知表、母に自分の幼少期のエピソードを聞いた時のボイスメモも念のために準備し(結局使いませんでしたが)、覚悟を決めました。
結果、その病院ではあっさりと不注意優勢型ADHDと診断されたのです。
「今まで相当苦労してきましたね。」
私はやっと心から安堵し、先生のこの言葉にめちゃくちゃ救われました。
ここまできてみて、もし心療内科Cでの診断で終わらせていたらと思うと、ちょっとぞっとしてしまします。いまだにモヤモヤとした苦しみが続いていたかもしれません。
また、セカンドオピニオンをうけて思ったこととして、一度はグレーとも、ADHDとも、ASDとも言われているわけで、診断に明確なラインがないのだから、自分が苦しければ納得できる診断にたどり着くまでセカンドオピニオンを受け続けるのもアリなのではないかということ。(もちろん症状を偽っても意味はありませんが)
その中で、自分はこれだったんだ、というのを自分で決めてしまえばいいと思います。
私には次の心療内科Eを受診するという選択肢もあったわけですが、自分の中でのつじつまが合い、納得した診断にたどり着いたので、今はこのままでとても楽です。
世の中には発達障害という言葉が浸透していて、私もこうして発信するのに分かりやすいのでこの言葉を使いますが、最近は「発達凹凸」という表現も目にするようになりました。
これは画期的な表現だと思います。「どこからが障害でどこまでが普通」ということではなく世の中全員大なり小なり凹凸している。グレーでもあり、ADHDでもあり、ASDでもあるといえます。
自分で決めちゃっていきましょう!
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