親子だろうと価値観は違う

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正直なところ、親を全力では尊敬できない。

とくに育児放棄やDVを受けたわけではありません。

一つには考え方の違いもあるけれど、大きくはその考え方を見直そうとしない姿勢にあると思っています。

私のように学生でも社会人でもないと、あまりに価値観のかけ離れた人と関わる必要はなくなってきます。

また、関わるうちに分かり合えなくなったり、思っていたよりもズレていたと感じれば、相手が友人や同僚ならやんわりと距離を置けばいいし、恋人なら別れることもできます。

でもそれが家族で、とくに親となればそこまで簡単には割り切れません。

親が自分にとって価値観のベースを作った存在であり、理解し合えることを無条件に期待しているからかもしれない。

まだ自分の力で生きられないうちは、例え納得がいかなくてもその家の常識やルールに従うしかなかったけれど、自立し親元を離れてみれば、教えられた常識の中には根拠のない偏ったものもあったと気づきます。

状況が変われば価値観がひっくり返ることもあり、そこで過去の正解を否定できるかどうかはとても重要だが、親はそれができなくてどんどん古くなっているのです。

むしろ「変わらない価値観を持つことを良しとする」という価値観すら持っている。

道徳も法律も医療も変化し続けているというのに、いまだに昭和で得た気づきを令和に適用しようとしている親にうんざりすることが多くなりました。例えば、

  • お金はなるべく使わずに貯めるもの
  • 人に頼らず迷惑をかけてはならない
  • がんは死の病
  • 健康や寿命は今までの行い(善悪)による※これに関しては昭和以前の問題

などです。

でも結局は自分に伝える力がないだけで、あれがダメだのこれが違うだの言うだけなら誰でもできるし、なぜこうすべきがをいくら丁寧に説明しても意味がないことはもう分かっている。

「理由がなければ人は動かない」ということを先日実感しました。

私にも持続化給付金が満額の100万円おりたので、使い道は以下のように決めました。

20万 = 両親に受けさせる人間ドックの費用

40万 = 人間ドックを受けさせるためのエサ代(一人につき20万)

40万 = 自己投資

恥ずかしい話、私たち家族は一度も人間ドックを受けたことがありません。

「年齢的にも受けてほしい」という切実な娘の願いは却下され、それならばツアーにしてプレゼントをするからという提案も拒否。

特に医学への考え方が偏っている父はかたくなで、受けない理由をかき集めては首を横にふり続けていました。

ところが一人たった20万の現金が、なんともすんなりと人間ドックへ行く理由に化けたのには拍子抜けでした。

これまでいくら説得しても無駄だった問題が実質合計40万円で解決したのだ!

自分の言葉はなんと無力なんだろう・・・

希望どおりに事が運んだはずなのになぜかやるせない感覚になりました。

家族全員マネーリテラシーは低いと思いますが、それにしたって親子でこうもお金に対する位置づけが違ってくるものか。

書いているうちに悪口のようになってはきましたが、何はともあれ自身の健康状態を把握してもらうという目的は達成できそうです。もちろん私も受けます。

ただし条件ではあくまで人間ドックを受けるだけなので、何かしらの大きな病気が見つかったとしても、それで死ぬならそれが運命だと思っている父は治療をしない方針だそう。

私にはまだその考えをねじ伏せるほどのお金も説得力もないのでそこからは本人に任せるしかありません。

私が無責任なようですが、これは自分の健康や現状の把握に受動的な親本人の責任だと私は思います。

数年前までは将来母が寝たきりになったら私が介護をしたいと思っていたけれど、今ではお互いのためにもヘルパーなどお金を払って他人に任せたいと考えるようになりました。

「親だから」「子だから」という責任感にしばられすぎるのは良くない。

必ずしも親の面倒を最後まで見る必要はないし、産んだ子を大人になるまで見届けるべきだとも思いません。

そして血のつながった家族だからといって理解しあえない部分はあるし、親を尊敬できないことに後ろめたさを感じる必要もないと私は思うのです。

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