必ずしも発達障害特性に限った話ではありませんが、人間関係を積み上げられない人というのは一定数います。
「個の時代」とか「友達は必要ない」といった割と最近の価値観も、「全くの一人で生きていける」という意味に解釈すれば、かなりしんどいジレンマにハマってしまう。
分かっていることですが、あかの他人であれ誰かと関わらずに(人が作ったシステムを借りずに)生計を立てることは不可能で、ホームレスでさえコミュニティをつくっているように、誰の助けも無しに生きていくことはできないのです。
それでも可能な限りのことは自分一人でこなし、人に頼ってはならないと思いながら過ごしていれば、未来の自分も孤独であることは確定です。
私もそんな考えを持っていたので、やはり一人では何をしていてもいずれ行き止まりが訪れました。
そして恥ずかしい話、いつもそこから進めないでいると、手招してくれる誰かに呼ばれるがまま進路転換をしていたように思います。
どこにいても浮いてしまう
私の性格ははなから消極的だったわけではなく、幼少期特有の衝動性から周囲を困惑させたり、人によっては引いてしまうような行動をとったりと、回りから浮くような要素を持つ小・中・高時代だったと認識しています。
また、「明るい」「ひょうきん」「マイペース」と表現されることの多い子供でした。
小学校低学年まではまだなんとかなっていても、高学年くらいになると皆規律を意識しだし、他者との比較を始めます。
そんな年頃のせいかクラスでは順調に浮いたキャラへと仕上がっていき、そこまで激しくはないもののイジメの対象にもなりました。
(具体的には上履き隠し、集団での無視、すっぽかし前提での放課後の約束など古典的なもの)
そこから中学、高校にかけて自分は人間関係が不得意で、周囲とピントがズレていることに気づきつつも、それが何故なのか自分にも説明がつかず、、
ただどういうわけか、いつも同じような状況に行きつくことだけは分かってきました。
結局のところ、序盤にぐんと縮まったとしても最終的に皆と一定以上の距離が空く。
これが自分のパターンなのだと。
浮かないことをあきらめた10代
学生時代で最も記憶の少ない中学でもやはり浮き、イジメは無かったものの穏やかに孤立していたような気がします。
そして自我の強まっていく高校時代も後半になり、ようやく自分と他者とのあり方について何かが吹っ切れた感覚を持ちました。
それはきっと“あきらめ”だったのだと思います。
浮かないことをあきらめ、人と距離を縮めようとするのをやめたときにふと楽になり、これが自分なんだという一つのアイデンティティを持った気がしました。
また、当時そのことに少し酔ってもいたと思います(笑)。
受け身を貫くようになる
しかし、ことバイト(仕事)となれば確立したアイデンティティなどは必要なく、「言われたことをきちんとやる」「常識的に振る舞える」といったスキルが求められ、今度はADHDである自分の不注意さがクローズアップされてるようになっていきました。
いろんなバイト先を自らの不注意やミスの連発によりどんどん居づらくしてしまう私は、そのほとんどを短期間でやめ、またまた同じような状況に行き着くというのがパターン化していることに気づきました。
良くも悪くも身の振り方が変わったのは、ようやく自身の発達障害を疑い不注意優勢型ADHDの診断を受けてからです。
自分がミスすることを前提に物事を選択するようになり、
役に立ちたいからといって自分から名乗り出るようなことはやめ、
余計なことはせず最低限のアクションにとどめておこう・・・
と、受け身の姿勢を貫くようになりました。
いつからか、必要以上に失敗を避けたがり自分で舵をとろうとしなくなってしまった。
それが診断を受けたことによる最大のデメリットだとも思っています。
寂しくもホッとしてしまう危険な孤独
受け身の姿勢をとり続けることで、何かに“参加している”感覚を得る機会は減っていき、それは孤独が増すことを意味します。
そもそも参加さえしなければ、そこに居づらくなっていく気持ちを味わうことも、傷つくこともないという安心感はありますが、怖いのはその状態に慣れてしまうこと。
なぜなら孤独はその人の生存率に関わるというデータすらあるからです。
無職を謳歌しようと手に取った本「最高の体調」に書いてあったので怖くて震えました(笑)
実際、何のコミュニティにも参加せずに半年ほどを過ごした私は、そのことでストレスから解放されると思っていたのに、現在はむしろど何にも参加していないことへのストレスを感じているので戸惑っている。
コミュニティを離れれば付き合いは簡単になくなる
少なからず寂しいという気持ちはあるのに、そんなことよりも傷つかずに済む安心感の方が勝ってしまう私たちのようなタイプには、流れに逆らわないとどんどん孤独を選ぶ習性がある。
そのため、コミュニティを離れた後も人付き合いを継続していくのはとても困難なのです。
かといって「最近どう?」とか「元気〜?何してる?」のようなとっかかり文は、切り出すのも答えるのも上手くないし、「こんなやり取りに意味を見出す必要などない」と分かっていてもおっくうになる。
その点、仕事か趣味かはさておきとして、繋がりを継続しておくための努力が不要なコミュニティというものは、私たちのような積み上げられないタイプにこそ便利に働いていたのだと気づかされた。
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